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小編:狐の嫁入り

この世は無常

皆んな分かつてゐるのさ

誰もが移ろふ

さう絶え間ない流れに

ただ右往左往してゐる

(椎名林檎と宮本浩次『獣ゆく細道』)​

【記録者:久賀 霖】

 部屋の窓から西日が差し込み、リビングのテレビからワイドショーの声が聴こえてくる。俺は、豚肉を煮込みながらインターホンの音を待ちわびていた。高校の後輩であり、……俺の恋人の田代(たしろ)晴夜(せいや)が、今夜はバイトがないからと言って、大学の実習が終わった後に泊まりにくることになっている。自分はというと、今日は久しぶりの非番だ。部屋を掃除し、洗濯物を干し、買い物に行って、などをしているとあっという間に日は傾いていた。

 晴夜はきっと疲れた、腹減ったと愚痴りながら帰ってくるだろうから、酒のつまみにもなるような大味のおかずを大量に用意しておいた。長芋とベーコンのバター炒め、豆腐とエノキの中華風スープ、塩昆布とごま油で和えたやみつきキャベツ、近くのスーパーで買ってきた餃子。二合分の白米もそろそろ炊ける頃合いだろう。スマホの時刻表示を見ると、約束の十九時まで、まだあと三十分ほど猶予がある。冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、プルトップに指をひっかけてぐいと引くと、ぷしゅっと景気の良い音を鳴らしながら蓋が開く。喉に流れ込む炭酸の刺激が心地よい。本日二本目となる缶ビールを片手に、コンロの前まで戻る。

 窓の外を見ると、白く輝く月のシルエットが茜空に浮かんでいた。リビングから、夕方のニュース番組のアナウンサーが落ち着いた声音で話しているのが聞こえてくる。

「今夜の月は『上弦の月』です。満月まで、残り六日というところになりますね」

 そういえば、晴夜の姉の露華(つゆは)は空を眺めるのが好きだったことをふと思い出す。高校の剣道部でも、天体関係のニュースがあると決まって、やれ写真を撮るだの、やれ今夜は弟と空を見るだの、目をきらきらさせて話してくるのだ。

 天気予報が終わると、新しいドラマの番宣が始まった。新作の恋愛ドラマで、テーマは『略奪愛』であるらしい。何となく自分とは縁のなさそうな単語だなというところまで考えて、豚肉が煮込み終わったことをタイマー音が知らせる。意識をテレビの音声から台所へと向けて、これから来たる育ち盛りのわんぱく坊主のために、俺はあくせくと品を揃えていった。

 

 ――しかし、時間になってもその皿に手がつけられることは無かった。それどころか、いつもは遅れることなどめったにない晴夜が、なぜか今日は約束の時間を一時間以上過ぎても来ないのだ。スマホには何の連絡も入っておらず、『遅れるか?』とLINEをしてみたものの既読すらつかない。不思議に思って電話をかけてみるが、一向に出る様子もない。コール音だけが何度も何度も繰り返されていく。露華にも連絡が来ていないかどうか確認したが、特に何も聞かされていないらしい。

 もしかすると、何か事故にでも巻き込まれているのではないか。痺れを切らした俺は、晴夜を探すために家を飛び出した。頬を撫でる夜の風はどことなく寂しげで、俺の不安な気持ちを煽るように吹きすさんでいた。

 

 走る、走る、走る。アパートを飛び出し、駅まで向かう道を中心に住宅街を走り回る。すでに日は暮れて、ぽつん、ぽつんと一定間隔を示す街灯が、もういくつも通り過ぎていった。……おかしい。普段なら、散歩する年配の夫婦や犬と飼い主なんかがちらほら目につくはずなのに、今日は誰ともすれ違っていない。息が上がる。酒のせいか、視界がふらついて安定しない。晩夏の蒸し暑さが残る風が、肌に纏わりつく。気持ち悪い。焦燥感と不安で喉が詰まり、げほげほと大きく咳き込む。止まってしまった足を見て、思わず顔が歪んだ。

 なんとか落ち着いて呼吸をしようと息を吸い込んだところで、ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。誰かいるのかと来た道を振り返ると、汗で滲む視界の端に、一瞬、黒い人影が通り過ぎていく。

「あのっ……!」

 大学生くらいの青年を見かけなかったか、と聞こうとして、人影がどこにもいなくなっていることに気づいた。何かの甘ったるい香りだけが、風に乗ってどこからか漂ってくる。嗅いだことがあるはずなのに、何の匂いだったか思い出せない。得体の知れない何かに見られていたような気がして、今度は冷や汗がぞわりと吹き出す。

「何なんだ……!」

 苛立ちだけが募っていくなか、突然、ピコン、という場違いに間抜けな音が響いた。LINEの通知音だ。少し先の路地裏から、連続してピコン、ピコンと鳴っているらしい。無我夢中で駆け出し、音を頼りに街灯のない細い道を進むと、すぐに電柱のそばでうずくまって座り込んでいる人間を見つけた。

「晴夜!」

 駆け寄って身体を抱き寄せる。肌は酷く冷たく、青白い顔に生気は一切感じられない。死、という一文字が脳内をよぎり、背筋が凍りつく。肩を軽く叩きながら、必死に呼びかけた。

「俺がわかるか、晴夜?」

 すると晴夜は、薄らと瞼を開けて息を吐いた。

「……なが、さん?」

 返事があったことに、俺は心の底から安堵をした。今まで張り詰めていた緊張の糸が一気に緩みそうになる。

「あれ、俺……なんでこんなところに……?」

 晴夜が掠れた声で尋ねた。黒目が潤んで、どこかとろんとしている。

「何があったのか覚えてないのか?」

「ん……駅出て……ながさんち向かって……えと、あれ……?」

「わかった。とりあえずここから移動しよう。立てるか?無理そうなら救急車を呼ぶぞ」

「大丈夫……。多分だけど、歩ける、と思う……」

「そうか。なら俺の家まで戻って休もう」

 肩を貸そうとすると、ふらつきながらも晴夜は一人で立ち上がった。

「いいよ、一人で歩けそうだから。ありがとう」

 そう言って力無く笑うと、晴夜はゆっくりと歩き出した。熱中症だったのだろうか。だとしたら、家で水分を用意しないと、などと考えていると、コンクリートに何かの跡が付着していることに気づく。それは、数滴の血痕だった。

「晴夜、どこか怪我はないか」

 怪我で出血をしているのであれば、貧血の可能性が高い。まして大きな怪我であれば止血もしなければならない。しかし、先ほど駆け寄ったときにはそんな怪我も出血の痕跡も見受けられなかった。そして、当の晴夜はきょとんとしてこちらを見つめている。

「え、怪我?してないと思うけど……」

 答えかけた瞬間、晴夜が「痛っ!」と小さく震える。右の手に触れた首筋が痛んだらしい。

「見せてみろ」

 晴夜の首筋にそっと触れる。――その白い皮膚には、動物の小さな歯型のような痕が、まだ血が滲んだ状態で残されていた。

 

 その晩、俺の家に着くなり晴夜はすぐに眠りに落ちてしまった。一人で晩飯を平らげて、余った分を整理し、露華に電話を入れておく。露華は、電話口でもわかるほど弟のことを心配している様子だった。貧血で倒れていた、今晩は家で休ませる、ということだけ手短に伝えると、ほっとした声音で『よかった、無事で……』と呟くのが聞こえて、それから申し訳なさそうに、『弟のこと、頼みますね』と頼んできた。声の調子が上擦っていたので、もしかしたら泣いていたのかもしれない。

 露華への電話を済ませてから、シャワーを浴びて汗を洗い流す。晴夜は結局、倒れたときのことを全く覚えていなかった。歯型にも心当たりがないらしい。今は深く眠っているものの、何も食べていないからなのか、ベッドに寝かせたときにはまだ顔色は優れないようだった。変な虫や動物にでも噛まれたりしたのではないだろうか。明日の様子次第では、実家まで送る必要があるかもしれない。どうしても胸がざわついて仕方がないので、明日に急遽休みを取るかもしれないことを、職場の上司には連絡しておくことにした。

 諸々を済ませてベッドまで戻ると、晴夜が胸を薄く上下させて横たわっている。帰ってきたときよりも、幾分か表情は和らいでいるように感じて、少し頬が緩む。それから、隣の床にマットレスとタオルケットを用意しようと動いたところで、俺はあるものに目が留まった。

 晴夜の左手の薬指に、小さな花の刻印が施された指輪がはめられていた。初めて目にする物だった。小ぶりだが細かく凝った装飾で、温かみのある黄金色が品の良さを感じさせる。思わず、俺は口に出していた。

「金木犀だ……」

 路地で嗅いだ、あの甘く染みつくような香り。あれはまさしく、秋の到来を告げる金木犀の花の香りそのものだった。指輪の模様も、おそらくは金木犀であろう。これは偶然なのだろうか。この指輪は、あの謎の人影に何か関係しているのだろうか。

 ……いくつかの違和感を薄々覚えながらも、俺の身体と精神はとうに限界を迎えていた。深く考えないように現実から目を逸らしながら、俺はタオルケットにくるまり、眠りに落ちた。

 

 翌朝、目覚めとともに固くなった背筋を伸ばす。昨日の疲労が取れたとはとても言いがたい。起き上がりながら隣を見ると、晴夜が掛け布団の中でうずくまっていた。

「おはよう、晴夜。もう起きてたのか」

「……」

 しかし、晴夜からの返事はない。

「どうした?まだ気分が悪いか」

「ち、違くて。ながさん、カーテン閉めてほしい。なんだか、眩しくて」

 朝日の刺激が強かったのか、カーテンを閉めてくれと晴夜は懇願する。俺は特に疑問に思うこともなく、窓際まで歩み寄りカーテンを閉めた。

「あまり調子は良くなさそうだな――」

 閉め終えた俺が振り返ると、先ほどまでベッドでうずくまっていたはずの晴夜が、すぐ後ろに立っていた。音もなく近づいてきた大柄な身体に驚いて、思わず身じろぎをしてしまう。薄暗い室内の中で、晴夜の表情は読めない。

「ながさん」

 一歩、晴夜がにじり寄る。今までに聞いたこともないような、低く、湿り気のある声。

「……何だ」

 反射的に俺も一歩下がるが、晴夜はじりじりと距離を詰めてくる。昨晩は蒼白だった肌の色は、どことなく紅く火照っているように思えた。熱でも出ているのだろうか。

「あのさ、俺――」

 足が何かにぶつかって、いつの間にかベッドの側まで下がっていたことに俺は気づいた。同時に、目の前の晴夜がぐらりと押し倒してきたせいで、二人で掛け布団の上になだれ込んでしまう。晴夜がおかしい。さっきから両目の焦点が合っていない。晴夜の腕が、背中にするりと回されて、身動きが取れなくなる。早く逃げなければ。頭の片隅で警鐘が鳴っているのに、うまく思考がまとまらない。

「――喉が、渇いたんだ」

 一段と低く、甘えるような声で囁くと、晴夜は俺の首筋に唇を寄せてきた。そこで初めて、俺は、晴夜の身体に起きている異変を認識した。

 頭には獣の耳のようなものが二つ、ヒクヒクと動いている。背後には、黒い尾のようなものが蠢めき、瞳は虚ろだ。強い金木犀の花の香りが漂い、くらりと目眩を覚える。豹変した晴夜の様子に、言い知れぬ恐怖が全身を支配する。

「――!」

 次の瞬間、首筋に歯を突き立てられる。いや、突き立てられたのは歯ではなく、むしろ牙と形容すべきものであった。血の気が引く感覚。縋るように身を寄せ、恍惚とした表情で血を啜る晴夜。彼の喉がこくり、と鳴るたびに、このまま殺されるのではないかと身震いする。

 しかし同時に、それに悦びを抱いている自分がいた。俺は、求められている。晴夜が愛しい。唇から垂れる涎ですら、艶やかに情欲を誘う。酒よりもずっと深い酩酊感。緊張で強ばっていた身体から、次第に力が抜けていく。芳醇な金木犀の香りと、首筋を伝う舌の快感に、どうしても抗うことができない。

「ながさん」

 いつの間にか晴夜は唇を離し、俺の名を呼びながらちろちろと美味しそうに傷跡を舐めている。背筋を這う晴夜の掌がこそばゆくて身をよじった。だめだ、このままだと、溺れてしまう。頭の奥で理性が叫ぶが、身体はもう言うことを聞かなくなっている。

「ながさん」

 ひとしきり舐め終わって満足したのか、晴夜はゆっくりと俺の目を見つめると、ゆっくりと顔を近づけてきた。畏怖と歓喜で、喉の奥から小さく悲鳴が漏れる。

――そして、唇と唇が触れあった刹那、脳裡で何かが弾け、俺は意識を手放した。

 

 どれほど微睡みの中で戯れていたのだろうか。唐突に鳴り響いたチャイム音で飛び起きたのは、すでに正午を過ぎた頃。部屋には異様なほどに金木犀の香りが充満し、蒸し暑さがそれを助長している。

 隣では晴夜が寝息を立てていた。その頭と腰には、いまだ異形の耳と尾が生やされたままだ。先ほどまでの記憶が蘇り、この不可思議な現象が現実だと思い知らされる。

 もう一度、急かすようにチャイムが鳴ったので、慌てて衣服を整えて玄関の扉を開くと、よく見知った人物がそこに立っていた。

「よう、久賀(くが)。呑気にお寝坊でもしてたのか?」

「……時雨(しぐれ)さん」

「昨日の連絡から何の音沙汰もねぇからよ、心配してちょろっと来てやったんじゃねぇか。感謝しろよ」

 そう言ってへらっと笑ったのは、俺の上司である時雨久助(きゅうすけ)だった。アッシュグレーの髪をぽりぽりと無造作に掻き、相変わらず皺のついたシャツとネクタイを身につけている。だが俺は、掴みどころがないように見えるこの男が、その実、優しく気配りのできる人間だと言うことをよく知っていた。昨晩連絡をしていたとはいえ、欠勤をして彼に余計な心配をかけてしまったことを察し、後ろめたい気持ちになる。

「すみませんでした、実は……」

 状況を説明しようとして、どう伝えれば良いのか見当もつかず、言葉に詰まった。途端に、時雨が疑わしげに見据えてくる。

「おまえ、その傷」

 指摘されて、慌てて首に手を当てる。忘れていた。晴夜につけられた首筋の傷を、見られた。触れた傷口がじくりと痛む。どうごまかしたものかと思案していると、さらに時雨が口を開いた。

「……同居人か?」

 肝が冷える。なぜ、奥に人がいたことに気づかれたのか。足元のサイズが違う靴か、それとも奥から漂う芳しい香りのせいか。いずれにしても、時雨は真剣な顔で、部屋の奥を睨みつけていた。まずい。中に入られるかもしれない。本能的に、今この人に中を見られる訳にはいかないと悟る。俺は黙って、相手の言葉の続きを待った。

 しかし、時雨が続けたのは予想外の言葉だった。

「一瞬、迷ったが。お前じゃないな」

「は……」

「魅入られているのは、同居人の方か」

 時雨はすぐさまポケットからくたびれた財布を取り出すと、中から端の折れた名刺のようなものを取り出して渡してきた。何やら寺の名前と住所のようなものが、達筆な字で走り書きされている。

「奥にいるヤツと一緒に、すぐにここに行け。連絡は俺から入れておく。急いだ方がいい」

 時雨の声や表情からはいつもの柔らかさが消え、目には昏い光が揺らめいていた。聞きたいことが山ほどあるはずなのに、時雨の威圧感の前では何も言葉が出てこない。何かを質問している暇などない、さもなくば。

「――戻れなくなるぞ」

 時雨は耳元で低く囁くと、俺の肩を幾度か叩きながらのそりと向きを変え、「じゃあ」と言って通路を歩き出した。

戻れなくなる、とはどういうことなのか。時雨の背中に、失礼します、と急いで声をかけたが、胸の内には漠然とした不安が広がっていた。扉を閉め、すぐさま出かける準備に取りかかる。玄関の向こうで、時雨の気怠げな足音が遠ざかり、小さくなっていった。

 窓を開けて甘い香りを逃がし、新鮮な空気を取り込むと、少しずつ頭が冴えていく。換気扇を回し、洗面台で顔を洗い軽く身体を拭いて、俺は部屋に戻った。まずは状況を整理するところからだ。

「晴夜、起きられるか」

 すやすやと眠っている晴夜の元に跪いて、肩を叩く。ぴくりと耳と尾が動き、薄らと目が開く。

「……ながさん?」

 むくりと起き上がろうとする晴夜を支えながら、コップに入れた冷たい水を渡した。晴夜が冷水を飲み干すのを待って、話を切り出す。

「お前の身に何が起こっているのかを突き止めたい。話を聞かせてくれ」

 

 昼に起きた晴夜は、朝よりも大分調子が戻り、顔色も明るくなっていた。ただ、自分に生えた耳や尾については気づいていなかったようで、俺に指摘されて初めて、『何だこれ、何だこれ⁉』と慌てふためいていた。昨晩なぜ倒れていたのかは、やはり全く思い出せないという。それどころか、朝の出来事もうろ覚えだったようで、『俺、ながさんにそんなことしたの』と顔を真っ赤にして恥ずかしがっていた。

 ただ、少し体調が回復したとはいえ、晴夜は自身の変化に対して理解が追いついていないようだった。このあと外に出ると言うと、自分も連れて行ってほしいと必死に頼み込んできた。無理もない。誰だって、いきなり身体に動物の部位が出現したら困惑するはずだ。元に戻る保証もない。状況を知る人物には側にいてほしいと思うのが普通だろう。結局、耳と尾が隠れるようにフードのある薄手のロングコートを着させて、二人で目的地に向かうことになった。

 時雨から渡された紙を頼りに紹介された場所に辿り着いたのは、夕方になってからだった。その寺院は、街の中心部から外れた閑静な住宅街にいきなり現れる、こぢんまりとした寺であった。すぐ裏手は山に面している。境内に入ると、背の高い樹木が外界との関わりを断っているかのように感じられた。隣で、晴夜が深くため息をついて腕を伸ばしている。人とすれ違う場所では目立たないように背を縮こめて歩いてきたからか、慣れない動きで疲れたらしい。誰かいないかと辺りを見渡すと、よく通る男の声が話しかけてきた。

「ようこそ、久賀様。そちらがお連れの方ですか」

 俺たちを出迎えたのは、異国の血が混ざっているかのような彫りの深い顔立ちの、褐色の僧侶だった。声音は穏やかで温かみがある。

「はい、久賀と申します。こいつは、友人の田代です」

「田代様ですね、承知いたしました。申し遅れましたが、私は寒雲(かんうん)と申します」

 寒雲と名乗った僧侶は、深々と一礼をすると、柔らかく微笑む。咄嗟に俺の後ろに隠れた晴夜に視線を移すと、寒雲はすっと目を細めた。

「時雨様より話は伺っておりますが……なるほど。確かに、匂いますね」

 金木犀の花の香りのことだろう。晴夜の身体からは、終始あの甘ったるい香りが漂っていた。どれだけ嗅いでも慣れることはなく、常に嗅覚を刺激し、思考の邪魔をする。

「まずは話を伺いましょう。どうぞこちらへ」

 寒雲は、俺たちを手前の寺務所へと案内した。迎え入れられた客間は和室で、棚の上には見慣れない奇妙な形の置物や、干して乾燥させた草、水晶玉などが並んでいる。晴夜も落ち着かない様子で俺の後に続き、その後ろから、暖かいお茶を用意した寒雲が静かに入ってきた。

「お座りください」

 寒雲は俺たちに腰を下ろすよう勧めた。会釈をして座布団の上に座り、早々に本題を切り出す。

「昨晩から、田代の身体に異変が起きているんです」

「異変、というと」

「見ていただいた方が早いと思います」

 晴夜に目配せをすると、晴夜は小さく頷き、コートを脱いだ。隠されていた獣の耳と尾が、蛍光灯の下に露わになる。耳も尾も、怯えたようにへたり込んでいた。

「これは……」

 寒雲の端整な顔立ちに、小さな驚きの色が広がる。

「口内の歯も、明らかに形が変形しています。昨晩、道で倒れていたところを私が発見したのですが、その後から今朝にかけて身体の変化が起こったようです。本人は倒れた前後の記憶がありません」

「……成る程」

 俺の説明を聞いた寒雲は、少々お待ちくださいと断って立ち上がり、奥の部屋に入っていった。そしてしばらくの後に、古めかしい書物と道具をいくつか持って戻り、座卓に丁寧に並べ始める。本には、分厚い洋書や和装本まであるようだが、いずれも小難しい単語がびっしりと並んでおり、俺たちには読むことが出来そうにない。

「その狐の耳と尾が、お困りの種のようですね」

 席に戻った寒雲の鋭い視線が、俺たちを同時に見透した。晴夜が、落ち着かない様子でそっと自身の頭上の耳に触れ、寒雲に問いかける。

「これは……狐なんですか」

「ええ、妖狐のものです。そのまま放置しておけば、変異が進み、ヒトには戻れなくなるでしょう。獣に身を窶(やつ)し、二度とこちらの世界に還ることはありません」

 『戻れなくなる』という言葉に動揺が走り、俺は叫んだ。

「どうすればこいつを元に戻せるんですか!」

「な、ながさん、落ち着いて……」

 宥める晴夜も狼狽えているらしく、声が上擦っている。寒雲は数秒逡巡した後、俺をたしなめるような調子で言葉を発した。

「……実は、要因に心当たりがあります。少々長くなりますが、どうかお聞きくださいませ」

 一言断りを入れると、寒雲は滔々(とうとう)と、ある女の話を語り出した。

 

「この近くに、小さな洋館がございます。金木犀に囲まれた、美しい洋館です。この館、かつては富豪の別荘であったとのことですが、戦後に人が去り、実は数十年無人で放置されておりました。住む人間がいなければ、家は早くに寿命を迎えます。放置されて荒れ果てていた館には、人間はおろか、動物ですら近づきませんでした。

 ところが、ここ数年。にわかに洋館の外観が整えられ、庭の木々にも手が加えられていきました。特に秋になると、美しい金木犀の花が豊かに咲き乱れ、その香りを周囲に振りまくのです。どうやら、小説家の女性が一人で館に移り住んできたのだとか。滅多に姿を見せないこともあって、たいそう眉目の良い女だとか、おそらく未亡人だろうとか、付近の奥方の間では様々な憶測や噂が飛び交っておりました。今でも話の種のひとつとして定番になっているほどでございます。

 さて、私は彼女とは会ったことはありませんが、館の近くを通ることはございます。そういえば先日に通りがかった際には、金木犀が一段と濃く香っておりました。秋の訪れを感じ入っていた私でしたが、不意にそこに交じる別の匂いに気がついたのです。――それは、ヒトならざるものの、獣の匂いでした。未亡人に、新しく伴侶でも見つかったのだろうと思っておりましたが……田代様、貴方を見て確信いたしました。厄介な女狐に目をつけられましたね」

 寒雲はそこで一旦話を区切る。彼の端正な眼差しが俺を捉えていた。

「さて、久賀様。ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」

「……何ですか」

「田代様をヒトの姿に戻したい、というのが久賀様の願いである。この理解でよろしいでしょうか」

「そうです」

「……では。こちらからは、戻すための方法をお伝えすることができます。ただし」

 一息の後、ゆっくりと申渡しが行われる。

「その方法は、大きな危険が伴います。私の方でも、久賀様の命の保証はできません。――それでも、願いを遂げたいとお思いですか」

「はい」

 寒雲の問いに即座に答えると、慌てて晴夜が俺の袖を掴む。

「ちょ、ながさん……⁉」

「俺にできることなら、何だってやります」

「やめてよ、俺、そこまでしてほしくない、ながさんに何かあったら……」

「それは俺だって同じ気持ちだ。これ以上、お前に何かがあってほしくない」

「でも……!」

「露華を、家族を悲しませるつもりか」

 途端に晴夜が押し黙り、耳と尾がびくりと縮こまる。晴夜は姉に弱い。不意に、昨晩の『弟のこと、頼みますね』という露華の言葉が思い出された。

「承知いたしました。それでは、取り引きをいたしましょう。決して悪いようにはいたしません」

 そう言って寒雲は微笑むと、いくつかの道具を俺たちの目の前に置いた。小さなガラスの小瓶がふたつと、鋭く研がれた銀色の短刀が一本。小瓶のうち、片方は空だが、もう片方には透明な液体が入っている。

「田代様は今、あの金木犀の館に住み着いた女狐に、眷属の呪いをかけられている状態です。その指輪が、術者と対象者の繋がりを示しています。不用意に外そうとすれば、相手に勘づかれるでしょう。しばらくは触らないように」

 寒雲の忠告に、晴夜が小さく首を縦に振る。

「彼の者たちに、ヒトの道理は通用いたしません。解呪には色々な方法がございますが、今回は時間がございません。一番確実なのは、術者自身を滅し、呪いを中断させることです」

「滅する、とは……術者を殺す、ということですか」

 何でもやると宣言した手前ではあるが、流石に『人を殺す』というのは躊躇われた。しかし、寒雲はすぐさま否定の言葉を入れる。

「いいえ。今回の場合、術者は下級の妖狐……言うなれば妖怪、怪異そのものです。怪異の中には確かに、元々人間だった者も存在します。見目がヒトとさほど変わらない者もいるでしょう。しかし、その精神と身体の本質は最早、ヒトのそれとは何もかもが異なります。殺すという認識では不完全です。正しい手順を踏み、怨みの一片たりとも残さずに滅し、場を鎮めなければなりません」

「……まるで、何かの儀式みたいだ」

「そうですね。『お祓い』、と言った方が皆様には伝わりやすいかもしれません。さて、祓うためには特別な道具が必要になりますが……お譲りするにはひとつ、条件をお飲みいただく必要があります」

 寒雲は、空の方の小瓶と短刀を俺の前に差し出して、言葉を続けた。

「この小瓶一杯に、田代様の血液を溜めていただきます。必ず久賀様が短刀をお使いください」

「……どういうことです?」

「申し上げた通りの意味でございます。道具はそれぞれ、多くの人の手間と時間を奪って清められた品々です。対価をいただかなければ、かえって貴方の命に疵(きず)がつきます」

「……だとしても、なぜ晴夜の血を……俺の血では駄目なんですか」

「なりません。田代様の血液には価値があります。魅入られている者の……贄の、甘やかな血液でなければ、願いの重さと釣り合いません」

「そんな……こいつは貧血かもしれないんです。そんな状態で、あまつさえ傷をつけて血を奪うだなんて――」

 無理だ、と拒否しようとした俺を遮って、先に晴夜が答えた。

「わかりました。やります」

「おい、晴夜!」

「お願い、ながさん。ながさんだって、俺のために危険を顧みずに動いてくれてるでしょう」

「けど……!」

「これは俺の願いでもあるから。俺だって、ちゃんと元の姿に戻りたい」

 晴夜が、真っ直ぐに俺を見て諭す。覚悟を決めたその表情に、今度は俺の方が何も言い返せなくなってしまう。

「――それでは、短刀をお取りくださいませ」

 寒雲に促されて、俺は短刀を手に取り、晴夜は黙って左腕を差し出した。ゆっくりと手首に短刀をあてがい、声をかける。

「いくぞ」

 皮膚に刃を押し当て、一気に引いた。晴夜の眉間にしわが寄る。一筋の傷口から、みるみるうちに赤い液体が吹き出し、雫となって小瓶の底へと流れ込んでいった。

 八分目まで血が溜まったところで、寒雲が白い布を差し出してきた。

「ここまでで結構です。こちらの布で傷を押さえてください」

 寒雲は小瓶に手早く蓋をすると、棚の上に優しく置いた。代わりに、透明な液体が入っている方の小瓶と先ほど使った短刀を、再度俺たちの目の前に取り出して置いた。短刀は、いつの間にか血が拭き取られているようだ。

「この短刀には、魔を祓う術が施されております。館へ赴き、狐の胸にこの短刀を突き刺しなさい。これで心の臓を貫けば、異形の芯に巣くう邪念が削ぎ落とされるでしょう。そうすれば、田代様にかけられた呪いは消え去ります。小瓶に入っているのは、清めた水です。足止めくらいには役に立つはずです。どちらも決して身から離さないでください」

「……ありがとうございます」

「礼は不要です。おかげで、こちらも貴重な品を手に入れることができました」

 寒雲は棚に置いてある小瓶をちらりと見遣り、深く頭を下げた。

「日中は、あの者の忠実な下僕が眠る主人の護衛をしているので、かえって危険かと思われます。夜の方がまだ、対処の仕様もありますから……訪ねるのなら夜の方が良いでしょう。幸い、館はこの寺から遠くありません。この後すぐにでも向かわれた方がよろしいかと存じます」

「え……この後、ですか」

「ええ。田代様、傷の具合はいかがでしょうか」

 寒雲の言葉に視線を動かすと、晴夜が震える手で布を抱えていた。その顔には、恐怖の色が浮かんでいる。

「傷が……もう、塞がって……」

 布には確かに血の赤黒い染みがついているのに、左腕の傷跡はすでに大部分の筋が塞がりかけていた。それどころか、今この瞬間も痕が薄まっていることがありありとわかる。よく見ると、首筋にあったはずの噛み痕も、いつの間にかなくなっている。人間離れしていく自分の身体にショックを受けたのか、晴夜は左腕を凝視したまま動けない。そんな晴夜を見て、俺自身もひどく胸が痛んだ。

 何とかして、晴夜を元に戻さないと。焦る俺に対して、寒雲が険しい顔で最後の警告を告げた。

「言ったでしょう、時間がないと。田代様の身体は、今も刻一刻と変化しているのです。早く止めなければ、戻れないどころか――次に魅入られてしまうのは、貴方かもしれませんよ」

 

 時刻はすでに二十二時を回っている。冷ややかな秋の夜、人気のない高級住宅街の通りを進んだ先に、その家は現れた。金木犀の咲き誇る、手入れのよく行き届いた小さな洋館で、特に手前の庭に所狭しと植えられた金木犀に目を奪われる。玄関までのレンガの小道の脇や、壁際の柵の幾つかの場所にも数種類別の花が飾られていたが、一帯は咽せ返るほどの金木犀の甘い香りに塗り潰され、まるで金木犀に支配されているかのようだった。表札や呼び鈴の類いは、探しても見当たらない。

「……ここに、狐の妖怪、がいるんだよね」

「ああ。あの坊さんの話が確かならな」

「そっか……」

 寒雲という僧侶は、若そうな見た目の割に異様に落ち着きがあり、どこか底が知れない感じがあった。しかし、少なくとも先ほどの話し方や態度は誠実であったし、何より時雨からの紹介である。今は信頼して話を進めるしかない。真面目な声音で、晴夜が呟いた。

「ねえ、ながさん」

「なんだ」

「絶対、死なないでね」

「……は?」

 ドラマでしか聞かないような台詞に驚いて、思わず間抜けな声で聞き返してしまう。

「俺、まだあんまり頭働いてなくて。ずっと、知らない誰かに呼ばれてる気がするんだ。こんな耳も尻尾も生えてて、正直まだ混乱してる。早く元に戻りたい。……でも、だからってながさんが怪我したりするのは違う。ながさんには無事でいてほしいんだよ」

 見ると、フードの奥で晴夜は神妙な表情をしている。目には薄らと涙が溜まり、心配そうにこちらを見つめていた。ただ、本人は至って真剣なのだが、後ろでしょぼくれた尾も相まって、まるで飼い主を待つ大型犬のように見えてしまう。どうにもアンバランスなのが面白くて、俺はつい吹き出してしまった。

「な、なんで笑うの……わ、うわっ」

 たまらずむくれる晴夜の頭を、ぐしゃぐしゃと撫で回す。

「馬鹿。人間、そう簡単に死んだりしない」

「そ、そういうんじゃなくて……」

「大丈夫だ。俺が死んだら、誰がお前の世話をするんだ。ちゃんと最後まで面倒見てやるから、安心しろ」

「……本当に?」

「ああ」

 ぼさぼさに荒らした頭をぽんと軽く叩いて、ついでに獣耳もくすぐってやる。うぇ、とぐずりながらも、俺を心配する心優しい晴夜が、愛しい。彼を守るための覚悟を、俺は改めて口にした。

「必ず、二人で生きて帰るぞ」

 少し時間を置いて、晴夜が返事をした。少し、肩の力が抜けたようだ。

「……うん、わかった」

 

 晴夜に目配せをしてから、扉を叩こうと一歩前に進み、敷地に足を踏み入れた途端、視界が突如、一面の灰色に覆われる。足元から立ち昇る濃霧に理解が追いつかず、慌てて動こうとして足がもつれ、地面に膝をついた。

 咄嗟に見渡すと、先ほどまで目の前にあったはずの洋館は跡形もなく消え去り、視界一面に薄暗い雑木林が広がっている。崩れかけた墓石がいくつか残っており、木々の隙間から覗く空には満月が浮かんでいた。

 晴夜を探そうと声を上げようとして、座り込んでいた俺は、ふと自分が何かに馬乗りになっていることに気がついた。身体中が汗でぐっしょりと湿っており、足には砂が纏わり付いている。両の掌が、嫌に生温く、じっとりと濡れている。恐る恐る視界を下に動かして、俺は目を疑った。自分の下に、見知らぬ男が横たわっている。その顔は苦しみに歪み、目はギョロリと血走り、口からは血液と吐瀉物が漏れ、髪は乱れて土にまみれていた。肌は月明かりに青白く照らされ、その胸はじわじわと赤黒く染まり、鈍い光をてらてらと放つ銀色の小刀が深々と突き立てられているのだ。

 ――そうして私は、不可抗力だったのだと、誰にともなく言い訳をしました。頭では理解していたのです。彼の優しさは、私だけのものではないと。けれども私の激情は、留まるところを知りませんでした。

 彼の特別になれない自分が情けなくて、彼の特別になるであろう女性が妬ましくて、彼のことを深く憎みながら、けれども私は、彼のことを心から愛していました。

 横たわった彼を見ながら、自分がしでかしてしまったことへの懺悔の念と、彼と自分は永遠に結ばれることはないという絶望と、それでも消えることのない彼への情が、それぞれが代わる代わるに、私の頭を支配しました。要するに、一種の混乱状態に陥ったのです。正体をなくした私の脳は、次に、自分も死のう、という考えに到達しました。その考えに従って、彼の胸からずるりと小刀を引き抜き、自分の胸にあてがおうとして、私は、短刀についている血がぽとり、と着物に滴り落ちるのを目にしました。そのときです、この雫を飲めば、彼の血が私の中を駆け巡り、細胞の一部となって永遠に一緒になれるのではないか、と思ったのは。

 今思い返してみても、なんと恐ろしい考えだろうと思います。しかし、当時の私にとっては、それがこの世でたったひとつの、絶対的な真理だと信じられたのです。私は恐る恐る刃に口付けて、舌で表面の液をぬるりと舐め取りました。口の中に広がる鉄の苦み。あのなんともいえない多幸感と全能感は、もう一生忘れることはないでしょう。あの人とひとつに成れた。あの瞬間、私は新しい何者かに成ったのです。

 私の耳は、草木や小さな生き物たちの呼吸を具(つぶ)さに聴き取りました。私の鼻は、血と肉と土の匂いに混じった、草木の甘い香りを嗅ぎ分けました。そして、私の眼は、月明かりに照らされて輝く、一面の金木犀を映し出しました。私は、生まれて初めて世界の美しさに胸を打たれ、感謝を捧げ、涙を流しました。まるで新天地に飛び立つ渡り鳥のような爽やかな心持ちで、彼の胸の傷に顔を近づけて、その固い肉に歯を立てました。これから彼の血を啜り、肉を食み、骨を砕き、それらを咀嚼し、飲み込んで、彼が、私の身体中を巡り、行き渡って、ああ、完全に、本当の意味でひとつになれるのだと……。

 

 俺は、はっと我に返った。脂汗が身体中を伝っていく。気がつけば、見覚えのない洋室の応接間に倒れ込んでいた。灯りはなく、部屋は闇に包まれている。豪奢なレースのカーテンの隙間から、月光が幾筋も差し込んでいる。部屋には胸焼けするほどの金木犀の香りが満ちていた。吐き気に加えて、ひどい頭痛が身体を襲う。

「ふざけた夢見せやがって……!」

 舌打ちとともに、強張った身体を起き上がらせる。空気に粘り気があるかのように、呼吸をするのが苦しい。すると部屋の奥から、鈴を転がすような声が響いた。

「ふざけた夢、とは……言ってくれますね、人間」

 慌てて声のした方向に顔を向けると、絢爛な椅子に腰を下ろした一人の女性が微笑んでいた。

「私はこれでも小説家の端くれです。もう少し眠っていてもらう予定でしたが、その様子だと、どうも中身がつまらなかったようですね。私の作品に文句があるなら、もう少し具体的に指摘してくださいますか」

「……あんたが、噂の女狐とやらか」

 白い陶器のような肌にすらりとした肢体。艶やかな黒髪を後ろで一纏めに括り、漆を塗ったかのように混じりけのない黒の洋装を身に纏っている。そして何より、頭上には獣の耳が、腰からは尾が生えていた。物腰こそ柔らかいが、女が発する空気は鉛のように重く、同時にひりついている。

「お次は『女狐』呼ばわりですか。まあ、『狐』なのは事実です。甘んじて受け入れましょう」

「……作品も何も、さっきの夢はあんたの過去だろう」

 あの墓地での光景は、この女の記憶だという確証があった。夢の中での自分の手は、無骨で骨張った男の手ではなく、華奢で痩せ細った女の手の形をしていた。一種の催眠術のようなもので、頭の中にこの女自身の記憶を無理やり流し込まれた、といったところだろう。

「同情を誘うつもりだったのか知らないが、こっちはあんたの過去なんかどうでもいい。晴夜を元に戻してもらう。覚悟しろ」

 短刀と小瓶を腰のカラビナから外し、それぞれ手に持って構える。それを見た女は、口角をにぃ、と釣り上げて笑った。口元にあてがわれた左手の薬指には、晴夜がしていたものと同じような意匠の指輪が付けられている。

「……そんなものまで用意していたのですね。小賢しい」

 一歩、女に近づく。寒雲の話によれば、これでも下級の妖怪であるため、高い身体能力と簡単な術の行使以外に恐れる点はないという。一瞬でもいい。隙を見つけようと感覚を研ぎ澄ます。

「己の『気』と意志のみで術を破り、怪異にも物怖じせす相対するとは。やはり殺しておくべきだったか……この仔(こ)も、良い守護者を選んだものです。ねえ、『せいや』」

 椅子の傍らの暗がりから、姿が見えなくなっていた晴夜がゆっくりと立ち上がった。首筋には汗と涎が幾筋も流れ、表情は硬く、苦しげだ。耳と尾はぐったりと垂れ下がり、身体は小刻みに震えている。

「晴夜……!」

「動くな」

 女の声が、俺に冷酷に命ずる。先ほどまでの涼やかな声とは打って変わり、地を這うような低い響きだ。女の表情から笑みは消え、能面のようにただ俺を見ている。しかしその瞳には、どこまでも深い闇のような執念と、鮮烈な敵意が揺らめいていた。反射的に、俺の身体の動きが止まる。

「さもなくば殺す。その場でじっとしていろ」

 晴夜の喉には女の手が回され、鋭い爪が皮膚に食い込みそうになっている。涙目で震えている晴夜にゆっくりと視線を移し、女は再びころころと高い笑い声を溢した。

「……ああ、そうだ、そうでしだ。この仔は『せいや』というのでしたね。ふふ、『せいや』。可愛い私の仔。さあ、こちらへおいで」

 金縛りにでも遭ったかのように動かなかった晴夜が、「おいで」の一言で、されるがままに女に抱き寄せられ、二人で椅子に座り込む。これも何かの術か。晴夜の呼吸は浅く、間隔も短い。

「人間、お前ならわかるでしょう。この仔を狂おしいほど愛しく想う気持ちを。私はこの仔に、恋をしてしまった。もう止められない。私の方が、魅入られてしまったの」

 女は、恍惚として語りかける。晴夜の喉には爪が食い込んだままだ。

「……ふふ、人間。お前は賢いですね。私はお前が気に入りました。特別に殺さずにおいてあげましょう。この仔が成る様を、そこで見ていなさい」

 女は俺の方は見ていないものの、これでは下手に動くことができない。緊張で、指先から身体が冷えていく。

「おいで、おいで。私の『せいや』。一緒になりましょう……」

 女はそう告げると、晴夜の背に手を回し、鋭い牙を首筋に深々と突き立てようと大きく口を開いた。

 しかし、次の瞬間。

「……違うよ、キリュウさん」

 唐突に、落ち着いた晴夜の声が告げる。女の動きがぴたりと止まった。

「俺は、貴女の想い人ではないから、貴女と一緒になることもできないよ」

「え……?」

「混乱させてしまって、本当にごめんね。貴女が呼んでいたのは、本当は別の人なんだよね」

「『せいや』……何を言って……?」

「かつて貴女が愛した人を、ちゃんと思い出してあげて」

 晴夜はそう伝えると、女の首と腰にゆっくりと手を回して抱き締め、――そして、俺を見た。

 その視線に、俺は弾かれたように動き出す。晴夜の作ってくれた契機を逃すわけにはいかない。冷え切っていた身体中の血液が、一瞬で沸騰したかのように全身を巡り出した。二人までの距離を一気に詰めて、まずは右手に持っていた小瓶の水を、女の背にぶち撒ける。

「っあ――⁉」

 水をかけられた女は金切り声をあげ、もがき苦しむのを懸命に晴夜が押さえ込んでいる。そしてそのまま、二人は椅子から転げ落ちた。衣服はぐずぐずに溶け出し、女の背中はみるみる内に赤く爛れ、腫れ上がっていく。

「痛い痛い痛い、助けて、『せいや』、ああ、違う、誰、あな、あなたは――」

「ながさん、お願い……この人を助けてあげて!」

 小瓶を床に投げ捨て、今度は短刀を両手できつく握りしめる。俺は、大きく腕を振りかぶり、思い切り女の背に短刀を振り下ろした。

 言葉にならない女の絶叫。鼓膜が震え、視界がチカチカと点滅する。女の身体から振り払われまいと、しがみつく晴夜。女の四肢はのたうちまわり、悶え、床や椅子の脚に何度もぶつかっては跳ね返る。傷口から少しずつ抉れていく皮膚と肉と、刃との隙間から滲み出る血液。俺は暴れる女の背の上で、無我夢中で短刀を押し込み続ける。正しく骨を避けて心臓を刺せたかどうか定かではないが、もう一度刺し直すような余裕もなく、このまま耐えるしかなかった。晴夜の節くれ立った指が、女の肉に幾筋の痕を遺していく。女とは思えない程の膂力に、この女が人間ではないことを思い知らされる。俺も晴夜も、相手の動きを封じ込めるのに必死だった。

 

「……――っは、あ」

 どれほど時が経っただろうか。女はいつの間にか動かなくなっており、俺たちは三人で床に崩れ伏していた。身体中の筋肉が、力を入れ続けたせいか岩のように固くなっている。息を吐きなから少しずつ身体を起こし、短刀から両手を離した。向かいでは、晴夜が丁寧に女の身体を横たわらせていた。女の背にはまだ短刀が刺さっているが、ひとしきり暴れたがために床一面に血の海が広がっている。

「あ、ぁ……」

 空気の漏れるような音と共に、女はまだ何かを話し続けている。虫の息、とはまさにこのような状況のことを指すのだろう。

「……」

 彼女は、晴夜を哀しそうに見つめて、誰かの名前を呼んでいる。唇は微かに動いているが、その声はもう音にはならず、俺たちには聞こえない。

「ぁい……ぉ……ぇ……」

「ちゃんと聞こえてるよ、キリュウさん。安心して」

 キリュウと呼ばれた女性は、晴夜の声かけに安堵したように口元を緩ませると、そのまま動かなくなった。

 ほどなくして、短刀が刺さっている背中の傷口が、ほろほろと崩れ始める。

「これは……」

 驚いて崩れた部分を見ると、黄金色に輝く小さな粒々がこぼれ落ちていく。そうして彼女の身体は、金木犀の花びらの集まりへと変化していった。

「本当に、人間じゃなかったのか……」

 誰にともなく呟くと、返事をするかのように突然風が巻き起こり、目の前の花びらが一気に視界に舞い広がった。

 とっさに目を閉じ、次に目を開いたときには、俺たちは鬱蒼と茂る木々に囲まれた荒れ地に座り込んでいた。洋館は消え去り、あれほど咲き乱れていた金木犀は一本もなく、香りすら残っていない。敷地の外には、来たときと同じような閑静な住宅街が広がっているようだ。真っ暗な闇の中で、仄かな月明かりといくつかの街灯だけが静かに浮かび上がっている。

「……ながさん、無事?」

 そう心配そうに問いかけてきた晴夜を見ると、先ほどまでひょこひょこと動いていた耳と尾が、跡形もなく消え去っていた。口元の牙も、形のそろった元々の歯並びに戻っている。身体中についていた血の跡も、綺麗さっぱり無くなっている。

「晴夜……よかった、元に戻って……!」

 答えるのも忘れて、俺は晴夜に駆け寄り、その身体を力いっぱい抱き締めた。

「ちょ、ちょっと、ながさん⁉いたたた、もう、止めてってば!」

 そうは言いながらも、晴夜も笑いながら俺を抱き返した。

 彼の大きな背中を何度か優しく撫で、しばらくの間、お互いの体温を感じ、彼の息遣いを確認する。良かった。晴夜がこのまま、俺の目の前から消えてしまうんじゃないかと、本当はずっとずっと不安で押し潰されそうだった。視界の端が、涙で少し霞む。

「ながさん、ありがとう」

「……礼はいい」

「そんなこと言わないで。ありがとうくらい、言わせてよ」

 すると突然、からんと金属が落ちたような音が聞こえた。俺と晴夜が足元を見ると、金木犀の刻印が刻まれた指輪がひとつ、残っている。恐らく彼女がしていたものだろう。

「この指輪……俺がしてたのと、同じ……」

「そういえばお前、あの人と知り合いだったのか。なんで彼女の名前を知ってる」

 さっきからずっと気になっていたことを尋ねると、晴夜は意外な答えを返してきた。

「さっき、あの人の顔をよく見たときに全部思い出したんだけど……知ってるも何も、俺、彼女の小説のファンだったんだよね」

「……ファン?」

 晴夜の話によると、彼女は『霧生(きりゅう)葛(かずら)』という小説家で、繊細な心理描写と巧妙に組み立てられた物語の展開で人気を博していたらしい。晴夜が彼女の作品に出会ったのは、彼がまだ高校生のときであり、姉が持っていた小説を借りて読んだのが始まりだった。それから数年間、晴夜は『霧生葛』の新作を追い続けており、細々と応援をしていたのだそうだ。そもそも昨日の夕方、実習帰りの駅前で彼女に声をかけたのは、なんと晴夜の方からだという。何でも彼女の作品が新たにドラマ化するとかで、たまたま地元の駅前で彼女のサイン会が行われていたところに、晴夜が通りがかったのだ。

「メディア露出の少ない人だったから、こんな機会滅多にないと思って、列の最後尾に並んでノートにサインしてもらったんだ。俺が最後だったから、話し込んじゃってさ。帰る方向も途中まで一緒だってことがわかって、俺が送っていくことになったんだ。霧生さん、最初は全然普通に接してくれてたんだけど……今思えば、だんだん様子がおかしくなってたかも。なんだか頬は上気してたし、少しふらついてたし」

 霧生の発した、『私の方が、魅入られてしまったの』という言葉が頭を掠める。確かに晴夜は、周囲の人間から好かれやすい性格をしているし、動物からも懐かれやすい。しかしまさか、妖怪からまでも惚れられようとは、晴夜本人ですら思わなかっただろう。

「それで、別れの挨拶をしようとしたところで、急に霧生さんに首筋を噛まれた。全然理解が追いつかないうちに、すうって視界がホワイトアウトして、意識がなくなっちゃった。その後、ながさんが見つけてくれるまではずっと気絶してた」

「そうだったのか」

 晴夜は指輪を拾い上げて、じっと見つめる。

「これ、きっと霧生さんが俺たちにくれたんだと思う」

「どうしてそう思うんだ」

「『ごめんね』って。最後にそう言ってたから」

 いわゆる迷惑料ということか。いやしかし、これを今更どう使えというのか。しげしげと眺めながら考えていると、晴夜が俺の左手を掴み、薬指に指輪をするり、と嵌めてきた。

「……お前、使うのか、これを」

「うん」

「俺としては、複雑な気持ちなんだが……」

「この指輪をしてたら、いつだってながさんのこと思い出せるでしょ」

 そうだろうか。俺は心の中で首をかしげる。

「俺、今日のこと絶対に忘れない。ながさんが俺を助けてくれたこと」

 にこにこと嬉しそうに俺の手を撫でる晴夜を見ているうちに、まあ細かいことはいいか、という気分になってきてしまった。心なしか、指輪がじんわりと暖かい。指輪については、後で一応寒雲に確認を取ることにして、そのまま晴夜の手を握り、声をかける。

「……一緒に帰ろう、晴夜」

「うん、ながさん」

 俺たちは静かに立ち上がり、深夜の住宅街を歩いて、ゆったりと日常への帰路に着いたのだった。

(2022.10.10)

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